内在するのか外在するのか

たとえば、こんな議論。

『神様・仏様は自分の内側にいるのか、外側にいるのか。
外側にいたとしたら、「実体」として存在するのか。
存在しないとしたらそれは「外在」ではなく個が見ている幻想・幻影じゃないのか。』

これは二元論。
「ある」と「ない」で話がスムーズに通じたらいいけど、宗教ってそういう簡単に割り切れるもんじゃない。そもそも「見えないもの、はい終了!」だったとしたら、ずっとずっとの昔に、宗教なんて廃れてるから。

学問的に「やりやすい」方法をとれば、神様・仏様がいるって思っている人にインタビューをやって確認する方法がある。でも、人々が宗教を手に入れる経路を確認するにはいいけれど、普遍的な意味で、神様・仏様を表現するのは難しい。見えないし、触れられないし、それぞれの教義に影響を受けちゃうし。

こんな感じで、宗教について考えるとき、既存のものさしで表現しきれないところに、もどかしさを感じます。

大学時代の恩師は、「だから宗教学は教学に走ってしまう」として、その根本にある、「何かを信じている」というその「何か」について語らない宗教学の人たちに疑問を感じていたようです。

んで、既存の学問じゃそれを説明できないから、宗教者としてトランスパーソナル心理学という領域に足を踏み込む。そして「いるんだ」と思えるそのプロセスについて、親鸞をモチーフに汲み取ろうと試みます。でも60歳後半からその話をしているもんで、ちょっと言葉足らずな部分も少なくない。そういうしているうちに、5年前に亡くなってしまった。

今、恩師の本を読みながら、そのあたりをまとめて論文にしたいと考えてます。宗教者から見たトランスパーソナルの一例。かけるかなあ。

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