1月5日

By | 2011年1月7日

山梨。

連れの祖父は100歳直前で亡くなってしまって、
まあでも周囲は「そろそろだ」と思っていたので、悲しい
雰囲気はない。亡くなる前の医療の不備についてはいろいろ
あったらしいけれど、「100歳のお祝いだ」という喪主の言葉の
通り、みんな楽しく集った、という感じ。

火葬場の都合で、先に納棺、火葬、その後にお通夜、明日が
本葬という順番に。明日、僕は仕事始めなので休めたけれど、
火葬の場面にいればいいという判断で今日のみとなった。

葬儀は日蓮宗のもので、納棺にしても装束を着て、お経も僕が
知っているものとは違うし、お経をじっと聞いていても、そうなのかー
と思わされることが多い。同じ仏教でも本当に違うんだなあと
思いながら、それでも素敵なことをお話されていた。

特にすごいなと思ったのは、お坊さんと祖父は知り合いだったそうで、
お経に気持ちがこもっているのがわかったし、火葬場であっても、
親族よりも長く、最後まで遺影に向かってお経を唱えてくれていて、
さらにはお通夜の席でも丁寧にお経を読まれていた。

ふと、逆のことを考えてしまった。たとえば僕がぽーんと死んでしまって、
お葬式をしたとしたら、普段からお寺さんと懇意にしてないのに、
葬儀になったからと言って呼びつけて、お経を読ませるってことなのかなあ・・
と。祖父は懇意にしていたので、こうなったけれど、そうじゃないのかな。
ふと思った。だからといって、今から僕が近くのお寺さんに行くことは
ないんだけれど、いろいろ考え深いことだと思う。

あと、火葬について気になった。
これまで参列した式では、骨は焼き場から出てきて、熱気の中で骨を
拾ってきたけれど、今回はすでに壺に入れるべき骨を先に取り出していて、
「儀式として」骨壷にいれたという。これまで解説をしながらいれてくれて、
「これが喉仏で、これを必ず入れるのは・・・」とか、「綺麗な骨です」とか、
ちょっとした寸評・・・っていうのも変だけど、もらいながらだったので、
なんとまあシステマチックになったなあ、と思う。

たしかに焼き場から出てきた、熱気のある骨を見るのはきついのがあるけれど、
死は生を写す鏡というように、それはそれで意味のある形だったかもなと。
いや、わざわざ嫌な場面を見せつける必要はないんだけれど、けれどさ。

親族ともいろいろ話す。
「いとこが全員30代だね」と聞きながら、僕の親族もそうだなあと思ったり。
年は取っていく。いつか僕も死んでしまう。死ぬのはいいけれど、痛いのはやだな
とか、そういうレベルでしか考えてないけれど、そうとはいえ、お葬式というのは
普段会えない親族や知り合いと会うセレモニーなのかも、と改めて思う。

ひと通りの会を終えて、高速バスで僕だけ帰る。
帰り、外国人が僕の席に座っていたけれど、聞いても言ってることがよくわからん
かった(向こうの英語力の問題ですよ)。とりあえず彼がとっていた席に映り、
ぐっすり寝て、明日に備える。明日は鎌倉だ。

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