4月6日

投稿者: | 2011年4月7日

何が狙いでその行動をしているのか?
それが説明できなければ単なる道楽だ!

と、昔に教えられていて、当然のことだらけでなぜそれを声高に叫ぶのだろう?
と大学院の授業中に重っていたけれど、そうか、それができない人がいるからか
と改めて思う。

不登校の学級に配属されてから、そこに勤務していた人、している人のそれまでの
仕事を追っているのだけれど、どういう意図でそれをやったのかがわからず、とにかく
「子どものために」という言葉に集約されている。いや、「子どものため」は間違って
いないんだけれど、子どもに対してどういう行動が「ため」になっているのか。
それをきっちり言葉になっていない。

子どもや親に例外なく気に入られているのは問題ない。でも、気に入られることだけが
援助なんだろうかと思う。「子どものため」がどういうことなのか言葉になっているから、
その援助の検討も反省もできない。いや、援助じゃないんだよ、これまでが。

子どもの援助に関して、実は失敗しても子どもがもともと持っている成長力、それから
中学生の場合は上級学校(多くは高校なんだけど)へ支援をそのまま丸投げすること
ができるから、意外と「失敗」がない。だから、検討も反省も必要ない場合が多い。

もともと、その学級には普通の教員、あるいは新規採用が配属される場合が多く、
僕みたいにまがいなりにも心理学を勉強して、現場にも出ていた人間はこないことに
なっている。だからこそ、心理職の側から見た「援助」の質が、ここではなされてない。
これまで培ってきた研究や事例報告があるのに、それすら読んでない可能性が高い。
学校教員としての援助の内側に収まってしまっている場合が多い。悲しいことだと思う。

大学院生の頃、教員と心理職は仲違いすることが多いと聴いていたけれど、
こういうことかと感じる。幸い、周囲から僕は今のカテゴリーとして「教員」の側にされて
いるので、こっそり援助職側(個人的にはソーシャルワーカーとカウンセラーの間の子と
思ってますが)に回ってみようかなと思う。

とにかく、自分の子どもに対する行動はしっかり説明できるように、がんばってみようと
思う。孤高な戦いになりそうだけれど、大人を変えるより子どもの変化を見せたほうが、
説得力があるだろうという挑戦でもあります。

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