中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)すこぶる面白かった。こんなにグイグイ読ませる本が書ける人なかなかいないのでは?と。そして、網野善彦が唯物史観の歴史学な人でしか知らなかったけど読みたくなった。こんな魅力的な一家はやっぱり学者になるよなあとか、いろいろ思ったりもした。

気になる箇所はたくさんあったのだけど、特に印象に残ったのは『紺屋』のこと。中澤家の祖先は藍染をしていたらしく(甲州はかつて生糸の一大生産地だった)、そのつながりで藍色について話が興味深かった。

藍色はチベットでは『意識の原初状態』を表すし、神仏に近い存在がハレの日に好んで着る色彩だったそうで、『非人』(罪を犯し、でも放免されて下級役人として鎌倉時代でいう警察に勤めていた人たち)のカラーとして存在していた。

そして、藍染は発色を良くするために昔は人骨を使ったらしい。そこで紺屋は墓場を仕事場とする非人と繋がりがあった。そこから関西では紺屋の手が藍色に染まっているのを見て、差別されるといういわれもあったらしい。

入れ墨も藍色を使う。アイヌの人たち、網野善彦さんは縄文時代の人たちも刺青をしていたのではと空想する。

『未開社会では体に入れ墨ほどこすというのは、自分は動物と違う聖なる人間存在なんだぞ、という表現をするためだったんだろ。だから、甲州でも上州でも、伝統的に東日本では、体が紺色に染まっていることを奇異だなんてことを考えもしなかったんじゃないかな。ところが京都を中心にする西日本では、それが逆の意味をとたらされるようになったんだ。』(p.160)

このあと、原始や未開の文化の意味が現代では負の意味となる話が続く。非人(非人間)は人間の力を超えた力の領域に触れているもの、それを、『カミ』というか、『あんな人間おらへんやろ』(=非人=賤しいもの)というのか。捉え方の違いで集団心理が働き、差別されるかどうかが決まる。アンタッチャブルな領域に触れられるかどうかが鍵なのだろうけど、避けてきたのが今と考えるのは、とても面白いです。まあ、非科学的だからね。

話は変わって、娘には藍という漢字を敢えて使いました。その時のイメージは、海や地球の底にあるような元型とも呼べる場所の藍でした。葵や蒼ではなかった。なるほど、藍色はそういう部分とやはり繋がるのかと合点した次第です。

このあとも中沢新一さんの本、楽しく読もう。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です