あきらめました。

By | 2005年1月18日

ブログ風にしました。
以前の雰囲気みたいな「ウェブ日記」風でいようと思ったんですが、成り行きでウェブログのプチ研究者になってしまったので、観念しました(>_< ) でも何でウェブ日記風なレイアウトにしてたのか。 長くなるけど、ここ半年くらい考えていたことをさらっと書いてみますね。
この前までのレイアウトというのは、「アーキテクチャによる制約ってのはどんなもんか?」という実験を自分なりにやっていたのでした。基盤によって制約された環境では、僕はどんな行動をとらざるを得なくなるか?という。

平たく言うと、長文を書かせないレイアウトってどんなんだろう?と考えて、写真を毎回載せないと体裁が悪かったり、長文を書くと文字が浮いて見えるようにしたりしたのです。もちろん、あの時期の僕に長文を書かせるとドロドロしてるに決まってるので(笑)自分なりにそれをセーブさせたかったのもあるんですが、ほーんと、長文を書くとかっこ悪く感じちゃって自分でもびっくりした。いろんな人に言われたけど、内容が変だったのはそのせいで、だから個人的なことが書かれなくなるわけで、アクセス数も減る訳です(笑)

「アーキテクチャの制約」って、もともとは建築の言葉らしいのですが、パソコンに関して言うと、レッシグの『Code』を読めば一発。そしてIT社会が進むこれからの社会では、こうした制約は気づかない間に、僕らの周りでどんどんおし進められていきますです。

たとえば、あるサイトにアクセスしたら「ページが見当たりません」( not found )だったとする。そしたら普通は「あ、このページないんだ」と思う。でもそれは、自分のパソコンに勝手にインストールされた「フィルタリングソフト」の仕業だったとすれば・・・そのサイトは、他のパソコンから見れば実在するんだけど、普段使っているパソコンからは見ることができないので、アクセスした人は「こんなサイト、世の中になかった」ってことになる。

もし、この「サイト」がある思想系のものだったら、そして、そうしたサイトがことごとくフィルタリングされて not fonud になったとしたら、それだけで人間の行動は大きく変容されちゃう。もともとこの世界になかった(ことすら気づかれない)ものなんだから、考えることだってできない。そして、それは「誰か」が決めた制約なのです。

もう1つたとえを出すと、「スマトラ島」も、今回の地震がなければ、「この世にない」ものとして一生を終えていた人がたくさんいたんじゃないかって思う。

もちろん、スマトラ島がこの世にあってもなかっても、人によってはどうだってよいことなのかもしれない。一方で、今の子どもたちの使ってるパソコンは、フィルタリングソフトでエロと暴力のサイトは「not found」になります。これってかなり重大なできごと。僕はもっそい不安になってます。(参考:『青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会』)

さらにWordを使っていて思ったことだけど、僕は知らないうちに10.5ポイントの文字を使ってました。「ここはこの大きさで」と思ったとき、ソフトの作者が決めた11ポイントなり12ポイントという、決められた中からしか選ぶことができなかった。これも制約。

当然ながら、こういう制約がなかったらWordなんてソフトは作れない。誰かが「これが10.5ポイントだ!」と言わないと、文字すら打てなくなる。つまり、誰かが「こうですよ」って決めないといけないのです。

アーキテクチャによる制約ってそういうことっす。誰かが決めたことに僕たちは従わざるを得ない。そして奇妙なことに、その制約は気づかないままに受容される傾向にあって、さらには知らないままに行動にまで影響が与えられてしまう。

同じ線上にあるものとしては、もうちょっとしたら実施される、指紋情報が入ったICチップが埋め込まれるパスポートがそうです。あれも、アーキテクチャが僕が僕であることを定めてくれるもの。僕は日本って国が認めてくれる日本国民ですって、ICチップが証明してくれる。これがあるから、アメリカにもすいすい入れます。

でも、たとえば僕の指紋がそれと一致しなかったら、僕は公的に「僕」とは認められなくなる。ここで僕が何を訴えても、違法者でしかありません。

ほんとは、パソコンなんて不具合があるのが当然なのに、そして人が決めたことなんて曖昧なのに、みんな検索エンジンで調べた結果を闇雲に信じてるのと同じで、ここでもアーキテクチャを正しいと信じられる。

(たとえば、情報処理の授業で「世界一高いビル」を調べるってのがあります。面白いことに、10人に調べるように言えば、5人くらいは全然違う答えになるのです。でも、残り5人も正しいことを言ったとは思えない。だって「検索エンジン」がその根拠なんだから。じゃ、いったい何が正しいのか、本気でわからなくなる。世界一高いビル、何かわかりますか?)

もちろん、これまではそんなことしなくたって「慣習」で社会は成立してた。近所のビルが世界一なんだし(笑)、私は「私」だったし、人は殺しちゃいけなかったし、物だって盗っちゃいけなかった。それは当然のことだった。でもこれからはアーキテクチャによって、そういう制約が課されることになる。物を取っちゃいけないけど、それは他人の目があるわけじゃなく、監視カメラがあるから。東浩紀が人間が「動物化する」と言ったのは、本当にすごい指摘だと思う。

じゃ、誰がどんな哲学でそれを作っていくの?どんな意味で監視カメラをつけていくの?PHSで子どもをずっと追跡する親は、何を目的に他の行動も監視してるの?

今の研究者は、今の社会を調べることに着目しているみたい。それを作っていく哲学(教養?)ってのはほとんど無視されてる。哲学や教養って、一見すれば社会にまったく還元されていないように見える。だから、フィールドワークをしている人たちからかなり非難されてしまう。

僕は援助職の勉強しかしてこなかったし才能がないから、「こうした現状でいかに生き延びていくのか?」ってことをいろんな人と考えていくことしかできない。けど、こういう世界が目の前にあることを、少しでも多くの人に知ってもらえたらなあ・・・なんて思ってたりします。

心理学において言われてきた、私が「私」であるっていうことは、ライフサイクルだけではなく、アーキテクチャによっても揺るがされるようになってしまった。何が「私」であるのかってことを早急に考えないといけなくなってきてる。

そしてこれからは、何を制約すべきなのかを意図的に考えて、そのアーキテクチャを設計していかなくちゃいけない(参考:白田秀彰『情報時代の保守主義と法律家の役割』)。

好きなことをやっていけばそれでよいし、僕だって好きなことをやっていくけれど、社会の側が、やれ収入だ、結婚だって、それを許さなくなってきてる実情があるような気がする。負け犬だとか、希望格差社会だとか。「そんなもの!」と思える勇気と自信とあきらめって、大切のような気がする(この辺がまだまだ言葉にならないのだけれど)。

だから、僕はブログを読んで、自分で書いて、ふむふむと思うのでありました。ま、今日からは長文も書ける、ということで、楽しんで更新していきます(笑)

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